- ホーム
- 日本典礼寺院協会ブログ
- 管理者の見聞録
- 修行した人に、見えるようになるもの
修行した人に、見えるようになるもの
子供のころ、8年間ほど剣道を習っていました。その効果は何だったか分かりませんが、新聞紙を丸めたもので打ち掛かられても、あまり慌てずによけられるようになってはいました。それより、後年日本剣道選手権などの試合を見た時、剣の動きの速さを、ある程度見て判断できるようなっていることに気が付きました。同じような話をゴルフのレッスンプロから聞いたことがあります。人のスイングを見て、どこに良い点があり、どこがダメなのか、大体一目でわかるけれども、そうなったのはプロを目指して修行に入って3年目くらいだったとのこと。自分のは今でも良く分からないけどね、だからツアープロにはなれなかったんだと笑っておっしゃっていましたが。
何でもそうでしょうが、修練を積んだ人だけに特別に見える世界があるのだと思います。目にも止まらぬ速さで動くスポーツの世界はもちろん、絵画や美術、音楽にしても修行を積んだ方だけが到達できる世界があります。子供の描いた絵のようだ、などという評価がなされる絵でも、それが一流の画家のものだと、決して同じようには描けない味というものがあるそうです。
宗教の世界でも全く同様なのではないでしょうか。座禅や荒行などだけでなく、経典の学習、写経、読経などを何年間も続けられたご僧侶には、そのような修行を何も行ったことのない人々には、見えない世界が必ず見えているのだと思います。そうして得られた「何か」を、私たちは、ご僧侶の法話という形で受け取ることができます。練習はうそをつかない、とはスポーツの世界で言われることですが、仏法などでもきっと同じで、修行されたことは、心の奥底に深い教義として刻まれてきているに違いありません。ご僧侶方がそこから得られたものに、私たちはもっと沢山触れて、生きることの意味などを導き出していく拠り所にしたらどうだろうか、そう思っているのですが。