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手当ても看護も、見舞いや声掛けさえも許されなかった遺族の無念。
今月の、月刊フューネラルビジネス誌に、事業家で経営コンサルタントであられる松岡泰正氏が、ご自分のご家族の例を挙げながら、病を得て亡くなられた時の様子について、非常に深く考えさせられるお話を寄稿していらっしゃいます。
それによれば、コロナのことなど関係なかった時には、死期の迫った身内の方を毎日見舞い、体調のいちいちに気を配ってみんなで介護して、亡くなるまで精一杯尽くすことが出来た。それが今は、病院に入れるともう見舞いも許されなくなり、短時間許されたとしても、直接触れることは出来ず、ガラス越しに様子を拝むように見ているだけになって、亡くなるまで何もしてあげられなかったという辛い悔恨の情にさいなまれてしまう。その、何もしてあげられなかった、という後悔と心残りを救うのは、お別れの時間を納得いくまでとるような、心のこもった葬儀と供養しか無いのではないかとおっしゃるのです。
実は、先日当社の社員のご母堂が亡くなられました。家族仲の良い一族で、一緒に過ごす時間をいつも大切にしていることが、周りの私たちにも伝わってきていました。そのため、亡くなられた後の落胆の様子は、声をかけにくいほどでしたが、落ち着いてから様子を聞くと、入院させてから亡くなるまでの間に、何もしてあげられなかったことが、やはり辛かったとのこと。
正に松岡氏の寄稿の通りでしたが、同じことは今全国の病院に入っている方のご家族の身に起こっているのではないでしょうか。
当社社員も、心残りの無いように葬儀を手厚く施行し、せめてもの孝行にしたと言っていましたが、何も出来ない状態で送ることになってしまった時に、残された者の心の中に少しでも後悔が住み着かないように、たとえ身内だけであってもしっかりお別れの出来る葬儀、法要を執り行って、宗教者の供養を頂くことが大切ではないかと思います。もちろんコロナ禍が去って、亡くなる前に心いくまで看病できるようになるのが一番ですが。